本物だけに触れる事

昔、礼拝で教会長の説教で印象に残っている事がありまして、銀行員は偽札を見分けるコツとして、偽札には触れない、

本物だけに触れる事が大切なんだと説教で聞きました。

まあちょっと検索してみても引っかからなかったのエビデンスを出す事が出来ないのですが、当時の教会長が個人的に聞いた事なのかもしれませんが、真偽はともかく私としてはこれは非常に大切な事だと感じます。

この説教は信仰初期に聞いた事なのでどんな内容かはさっぱり忘れましたが、ポイントは偽札を見分けようと、偽札のサンプルを並べたとしても様々なパターンがあって分かりにくいので、ある意味時間の無駄なのだと思います。

なのでひたすら本物だけに触れる事が大事なのかもしれません。

私にとって本物とは

それではこの内容を自分に当てはめるとどうでしょうか?それは創造原理で生きる事に集中する事だと考えます。創造原理では、善と悪の基準が書かれています。

主体と対象が愛と美を良く授け、良く受けて合性一体化して神の第三対象となり、四位基台を造成して、神の創造目的を成就する行為とか、その行為の結果を善といい、サタンを中心として四位基台を造成して、神の創造目的に反する目的のための行為をなすこと、または、その行為の結果を悪というのである。

例を挙げれば、神を中心として心と体が、主体と対象の立場において、愛と美を良く授け良く受けて合性一体化し、個人的な四位基台を造成して、創造目的を完成した個性体となり、神の第一祝福を完成するようになるとき、その個性体、または、そのような個性体をつくるための行為を善という。そして、神を中心としてアダムとエバが、主体と対象の立場において、愛と美を良く授け良く受けて夫婦となり、子女を生み殖やして家庭的な四位基台を造成して、創造目的を完成した家庭をつくり、神の第二祝福を完成するようになるとき、その家庭、または、そのような家庭をつくるための行為を善という。また、個性を完成した人間が、ある事物を第二の自我として、その対象の立場に立たしめ、それと合性一体化して神の第三対象をつくり、主管的な四位基台を造成して神の第三祝福を完成するようになるとき、その事物とか、または、その事物をつくるための行為を善という。サタンを中心として四位基台を造成することによって上記のような神の三大祝福に反対の目的を成し遂げる行為、または、その行為の結果を悪というのである。

要約すると神様の3大祝福の成就の為の事が善で、それと反対の事が悪と書いてあります。

まずはそこに集中する事ですね。